昭和四十八年九月十日
X御理解 第七十七節
「人の悪い事を云うものがある、そこに若し居ったら成る丈け逃げよ、陰で人を助けよ」
神様の気感に適う心に適う、そう云う心掛けの人の上に 神様の心に適うと云うのは当然の事ですね、人の悪口を云う、大体人の悪口を聞くのは案外面白いものである、人間には色んな心があって、それこそ盗み聞きでもしたい、人の悪口でもはなしよると耳を聳て聞く、不思議な魅力をもっておる。
そこで人の悪口を云うだけでなくてそれを聞かぬように、出来るだけその場に居ったら逃げよと、普通は云うなら人の悪口を聞き耳を立てるような、心の状態と云うのは人間だれしもあると思う、ああそげな事ですかと云うて、悪口を少し言い出すともう、みんな云わせようと思ってそれこそ聞き上手に聞く、だからそう云う人の悪口を云わぬと云うだけでなくて聞かぬ、出来るだけその場に居ったら逃げよと、心掛ける、それだけでなく陰で人を助けよと云うところに、私は信心があると思うです。
この方は人が助かる事さえできればと、云うのが金光様の御信心のーー、教祖様の御信心を一口で云うたら、教祖様はこの方は人が助かりさえすれば結構であると、云うのが金光様の御信心と云うてもよい位、それなのに人の悪口を云う聞きたがる、そう云う私どもには、神様の心に適うと、云うよりか適わない心、神様に嫌われるようなそう云う心を、自分で自分の心の中に発見さしてもろうて、人の悪口だん決して云わんぞと云う気にならせて貰うだけでなくて、もし聞く場合は出来るだけその場を逃げると云うこと、云うならその場をのがれるとか逃げるだけでなくて、陰で人を助けよと云うこと、と云うときに愈々信心と云う事になると思うのです。
蔭で人を助けると云う神心が強くなからにゃいかんわけです、人の悪口を例えば聞くような場合、それが悪口が事実であったとしても、云うなら黙って祈らせて貰えるような、まあ心の状態の人こそ、神様の気感に適う心に適うた、ま人だと云う風に思うんです。
そこでです、蔭で人を助けると云う程しの、神心とまではいかんでもまず人間の最高の真の神心に次ぐ心と云うのは、親切な心と思いますね、親切、親切とは親が子を思う切実な心と仰る。
どうでしょう子供の悪口を聞いて親が喜ぶ筈はありません、親としてはそれは例えば事実であり、本当に悪くてもですそれを悪い様にいわれたり、又親が云う親はありません、例えば悪い事をしておっても、それをかくしたいのが親心、人の子供の事なら平気で悪口を云う、なら自分の子供の事は例え悪いところがあってもです、それをそれこそかくしてやりたいのが親心でしょう。親が子を思う切実な心、神心とまではいかんでもその親切心位は頂かれるような、私はおかげを頂きたいと思う、だから本当に神心とまではいかんでも、親心を以て事にせっする親心と云うのは、親と云う字を分解して見ると、木の上に立って見ると書いてある、木の上に立って見ると、まあ親不孝をして勘当同様にして家を出た子供があるとする、もうあの子は勘当したから、知らんと云う親があるでしょうか、勘当でもせなければならん位なら、もう寝ても覚めてもその子の事を思うと云うのが親心、夜中にボトボトと戸を叩く音がしたなら、もしやあの子が帰ってどんきたとらんじゃろうかと、そう思うような心が親子心、夕方どもなるとです、帰ってだん来よらんじゃろか思うて、それこそ高いところに上がって、それこそ木の上に立って見る、それが親心、そう云う心が親心だと、だから神心と云うのが如何に難しい事がわかりますね。
だから私は神心と云う前に親心と云うのがある、だからその親心がある場合には、煩悩が入っている場合があります、けれども親が子を思う切実な心です。なら赤の他人の誰れかれにもです、人の子の悪口を云うておる。自分の子供の悪口をいわれておる気持ちでです、その場に居ったら出来るだけ逃げて、そして自分が親心になる気持ちで、その事を祈ってやると云うような心掛け、そう云う心掛けにならせて貰う事が、神様の心に適っている人だと思うです。
今日は一つ出来るだけ勿論人の悪口なんか、若し聞くような場合は出来るだけ、その場をのがれよ逃れるだけではない、蔭でその人の事を祈ってやる、そう云う心が親心だと云う風に聞いて頂いた、勿論それがもっと高度になり浄化されて来ると、それを神心と云うのではないだろうか、親が子を思う切なる心で、人の例えば悪口なんか云えません、ところが人間にはそれと反対の、人の悪口を云うて気分がスーッとする、人の悪口は根掘り葉掘り聞きたがる、そして又それを人に伝える、まあ言語同断である、だからそう云う心は神の気感に適わぬ心である人だと云う事になる、だからそういう心は神の気感に適わぬ心である、人だと云う事になる。だからそれと反対のところに、心がけさせて頂くのが神の心に適うた人、神様の心に適うた人、神様の心に適う私どもでありたいと願う、と云うのですから人の悪口は一切いわぬと心に決めさせてもらう、若しそう云う事を聞かねばならぬ時には、できるだけ逃げられるならばその場を逃げる。そして蔭で祈ってやる、蔭で思うてやる、それも親が子を思う切実な心をもって祈ってやれるような、私はいうなら稽古と云う事も大事な信心の稽古じゃないかと思う、そして成程人の事を祈ってやれる事がです、こんなに有難い切実な心でそれを思う事が、自分で自分ながら自分の心を尊しと思う、そこに信心がある。
私はもう二十年位なるでしょうか、福岡に話して廻っている時に、電車を降りる、西鉄の電車に乗ろうと思うて、あそこのホーム待ってたところがすぐ前に若い人が二人、警察の方に手錠を掛けられて二人そこにおるんです、もう私はそれを見た時にもし親がそれを見たら、どんなにあろうかと、もしマフラーかなにかあったらそれを掻くししてやりたい衝動にかられた事がある、だからそう云うような心が、だから本当にそれが、人の子であり物見高い、あああれが悪い事したばいのと云う見方でなくて、もう本当にその場にそうして居合わせたならば、それを掻くしてでもやりたいような心、親切な心でとこう思うです。親切とは親が子を思う切実な切実心である。私どもは所謂神心にならして貰う、稽古をしておるのであるから、その一歩前であるところの云うなら親切心を愈々育てさせて頂く、又そう云う親切にならせて頂くと云う事が、こんなに有難い事だと云う体験をさせて頂いたらです、段々悪い事も聞かんですむ、云わんで済む、祈れれる、蔭で人が助けられるような、働きができるようになって来ると思うですね。どうぞ。